あゆち潟

現在の名古屋市南西部は、古来「あゆち潟」と呼ばれた浅い海で、江戸時代以降新田開発により干拓が進められてきました。当時の干拓は人力によるもので時間がかかり、作業を進めるうちに海側に新しい干潟が形成されて渡り鳥の飛来地としてずっと利用されてきました。


処分場の埋立計画

1950年代からの高度経済成長期に、名古屋港周辺の干潟は工業用地として埋め立てられ、わずかに残った庄内川河口付近の干潟に渡り鳥が集中するようになりました。稲永公園内にある名古屋市野鳥観察館が開館したのは1985年ですが、当時すでに野鳥の飛来地として知られていたことを示すものといえます。そのような場所に1984年、埋立計画が発表されました。なぜでしょうか?

その答えはゴミです。1984年当時、名古屋市(以下市)が使用していた愛岐処分場の残り容量がわずかになり、次の処分場用地を検討する中で南陽工場(ゴミ焼却場)前の浅海(干潟)が候補になりました。埋め立て地に囲まれた未利用地で、「埋め立てて陸地化し利用する」という当時の価値観にも沿うものと考えられました。


市民運動の動き

その計画に対して、野鳥愛好家を中心に「名古屋港の干潟を守る連絡会」が1987年に結成(1991年「藤前干潟を守る会」と改称、以下「守る会」)され、1991年6月に干潟保全を求める請願書を108,000人分の署名とともに名古屋市議会に提出しました。

市民の声を受けて市は2回計画を変更し、埋立面積を縮小しましたが、処分場の必要性の議論には踏み込まず事業計画を推進し続けました。事業を進める中で市は1996年に環境アセスメント(※1)準備書を公表し、この事業による「環境への影響は小さい」と評価しました。

しかしこれは事業者と審査者が同じ名古屋市であり、評価の信頼性に問題があるとして「守る会」が独自の公開調査を行い、専門家の協力のもとに科学的に市アセスの問題点を明らかにするとともに、市に追加調査を要請しました。1998年、市の審議会はその結果をうけて「環境への影響は明らか」という評価を出しました。準備書の評価と異なることから、影響低減のための代替措置として人工干潟が新たに提案されました。

藤前干潟の問題が広く知られるようになるとともに、国内外から多数の中止を求める意見が市に寄せられました。「守る会」は埋め立て面積を半分まで縮小してもなお環境悪化は避けられないこと、また人工干潟では代替にならないことをデータで示して事業の全面中止を訴えました。


藤前干潟は守られた!

1998年12 月、環境庁(当時)は市が代償措置として提案した人工干潟計画を不承認とし、さらに港湾計画の所轄庁である運輸省(当時)も環境庁の同意なしでの事業許可はできないと表明しました。さらに翌1月には藤前自治会住民投票が行われ、63名中59名が処分場受け入れに反対票を投じて地元の意向を明確にしました。これ以上計画を進めることは不可能と判断した市は、同月25日、埋め立てを断念しました。

埋め立て処分するはずだったゴミはどうなったのでしょうか?市は計画中止とともに「ごみ非常事態宣言」を出し、それまで不十分であったごみの分別・リサイクルを徹底することにより埋め立てゴミの削減・処分場の延命をはかりました。行政と努力と市民の協力あって埋め立てゴミは大幅に減少し、当初の危機感から40年近く経った現在も愛岐処分場は継続して使用されています。

※1「環境アセスメント(環境影響評価)」大規模な開発事業などを実施する際に、事業者が、あらかじめその事業が環境に与える影響を予測・評価し、その内容について、住民や関係自治体などの意見を聴くとともに専門的立場からその内容を審査することにより、事業の実施において適正な環境配慮がなされるようにするための一連の手続きをいいます。https://www.kankyo.metro.tokyo.lg.jp/assessment/index.html